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AI時代に、ホワイトカラーは何を武器にしたらいいのだろう?

AIとホワイトカラーの関係、というかホワイトカラーの働き方を深く考えさせられる新聞記事があったので、紹介しつつ考察していきたい。

「雇用関係」は考えるだけでまぶたが重くなる退屈な言葉の一つだ。「労使関係」はさらに始末が悪い。

── 日経新聞 2026.07.27朝刊

こう書いたのは、フィナンシャル・タイムズの雇用問題コラムニスト、サラ・オコナー氏。
日経新聞2026年7月27日朝刊に転載されたコラム「AI育てる労働者の得失」の締めの2行で、彼女はこう続けている。

この2つがAI競争の次の段階で鍵を握ることが明らかになるかもしれない。

今、AIの進化の煽りを食ったホワイトカラーが職を失い始めているわけだが、そんな中、あらためて「雇用関係・労使関係」が鍵を握るという。

ちなみに、コラムの出発点はこうだ。

幅広い職場において、人工知能(AI)モデルが真に力を発揮するために必要な知識は従業員の頭の中にあることが明白になりつつある。

汎用AIモデルは、特定の専門分野のドメイン知識や、業務手順・ノウハウとして組織内に蓄積された組織的知識を必要とする業務が苦手だというのだ。考えてみたら「そりゃそうかも」となる。

実際、一般的なデータだけでは50%程度だったAIの判断精度が、労働者が現場で得てきた知見を入力してやることで、85%まで改善した、という例が紹介されている。

つまり、AIを本当に使えるものにするには、従業員の頭の中の暗黙知を言語化して、AIに与える必要がある。そしてそれには「従業員の同意と積極的な協力が必要になる」(同コラム)というわけだ。

ここに、今日考えたい問題のすべてが詰まっている。
ホワイトカラーにとってAIは仕事を奪いに来る脅威の存在なのだが、AIにとってホワイトカラーは「なくてはならない存在」なのだ。もちろん、頭の中に、言語化しうる暗黙知があるホワイトカラー限定だけど。

目次

SECIモデルの時代──知識共有はwin-winだった

社員の暗黙知を言語化して組織で共有する。この発想そのものは、まったく新しい話じゃない。
野中郁次郎氏らが理論化したSECIモデルがまさにそれだが、日本発の経営理論では当たり前の考え方になっている。
このSECIモデルを、AI時代に個人としてどう活かしていくかということについては、過去に記事で書いたことがあるので、興味があれば後で読んでみて欲しい。

実は、このモデルの前提にはwin-winの構造があった。
組織は社員の知見を共有することで発展する。社員の側も、誰かの知見を言葉を介して吸収する機会を得る。だから「このチーム(現場)に所属することに価値がある」と思えたわけだ。知識を差し出すことは、組織への貢献であると同時に、自分への投資でもあった。

ところが、AIが組織に入ってくると、この構図が大きくいびつに歪んでしまうことになる。

共有は“知性のコピー”とイコールになる

同僚に自分のノウハウを教えるのと、AIに自分のノウハウを入力するのとでは何が違うのか。

同僚に教えた知識は、その同僚の中で咀嚼され、その人なりの形でしか再現されない。恐らく完全な再現には至らないだろうし、再現するのに時間を要する。そこに相互のコミュニケーションも生まれるだろう。当然、教えた側の価値は簡単には消えないし、減らない。

ところがAIに入力された知識は、劣化することなくコピーされ、しかも他の無数の知見と合成されて、AIの中でさらに高度に発展していくことになる。共有された知識はそれを提供した人の手を離れ、いわば完全な公共財になる

だから、組織が従業員に「あなたの知識を組織のためにシェアしてください」と言うのと、「あなたの知識をAIに入力してください」と言うのとでは、意味がまるで違う。後者はヒトコトでいうなら、「あなたが築き上げた知的財産をそのままコピーさせてください」ということなのだ。

それを素直に聞き入れられるだろうか?
写真家やイラストレーターさんに対して「あなたの写真・イラストをコピーして勝手に使わせてください」と頼むのと同じことを言われるわけだ。

労働者としては「私にはどんな対価が入るんですか?」と言いたくなるだろうし、「私がこれまでやってきた、自分の知見に基づく判断は、誰が担当するんだ?」と疑念を頂くだろう。そしてそれは当然「入力し終わった数ヶ月後には、自分はもういらなくなるんじゃないの?」となるはずだ。

オコナー氏が指摘するとおり、この恐れと疑念をめぐるせめぎ合いが、今後の組織のとても大きな課題になる。

ところで、この問題を考えるうえで、驚くほど参考になる本がある。
ドラッカーの『プロフェッショナルの条件』だ。1999年の書だが、まるでこの状況を予見していたかのような記述が並んでいる。というか、それほどまでに「本質」を言い当てているわけだ。

ドラッカーの視点(個人編)── 知識は「自分の生産手段」だ

同書42ページに、こんな一節がある。

彼ら(知識労働者)は生産手段、すなわち知識を所有する。この点において独立した存在であり、高度な流動性を持つ。

工場労働者にとって、生産手段は工場にあった。だから労働者は置き換え可能な存在になりがちだった。しかし知識労働者は違う。知識こそが生産手段であり、それは個人の頭の中に所有している。対価が低いと思えば、それを持ってどこへでも行ける──これがドラッカーの見立てであり、アメリカでは伝統的に「人的資本」として、流動性の高い資本と見做されてきた。

ところがAI時代には、この「生産手段の所有」という知識労働者の最大の強みそのものが、AIという巨大な知性を通じて組織に吸収・転移される可能性があるわけだ。暗黙知を言語化して入力した瞬間に、あなたの生産手段の完全なるコピーが組織側に渡る。

それを拒めば組織にいられないだろうし、自分が活躍する場が限定されてしまうことになる。
だとしたら、個人、つまりホワイトカラーの側には何が必要になるのか?

僕は、大きく3つあると考えている(ただし、それぞれが独立した3つの考え方ということではなく、3つが一体にならなければ意味がないものだ)。

第一に、「未来の自分はもっと価値が高まっている」ことを、成果と行動で示し続けること。過去の蓄積を吸収されても、次を生み出せる人間だと証明し続けるしかない。

第二に、給料を「時間当たりの対価」ではなく「プロフェッショナル性への対価」として捉え直すこと。一流のコンサルタントは「このコンサルティングは1時間だが、これは僕が30年間築き上げてきた経験値の対価だ」として高額なフィーを請求する。

画家のパブロ・ピカソの逸話として非常に有名な「30秒じゃない。30年と30秒だ」みたいな話がある。これが本当の話なのか、都市伝説的なエピソードなのかは分からないが、本質をついた話だと思う。

ホワイトカラーも同じマインドを持つ必要がある(あくまでマインドなわけだが)。時間で売るという発想は「私は自分の商品価値を計れていない」ことの裏返しでもある。

第三に、受け身のマーケティングから、能動的に知的財産の構築へ舵を切ること
そもそもホワイトカラーで就職する人のほとんどが、「私はつぶしの効く知識を持っているので、たいていの知的労働をこなせますよ」というスタンスだ。つまり「役割を与えてもらえさえすれば価値を発揮できます」という程度の、受け身のマーケティングだ。だから立場が弱くなる。

そうではなく、自分の知識を自分固有の生産手段として体系化し、独占するスタンスを持つ。組織には、組織で得た経験値もあるのだから喜んで提供するとしても、自分はそれをさらに独自の知的財産として価値に転換し、外に売ることもできる ── このスタンスを保っておかないと、入力した瞬間に、組織内での未来(立場)と一人のプロフェッショナルとしての未来を同時に閉ざすことになりかねない。

ドラッカーの視点(組織編)──「勧誘のマーケティング」の時代

では、組織の側はどうか。ドラッカーはこうも書いている。

知識労働者は、組織に依存しない。

事実上すでに組織は、製品やサービスと同じように、あるいはそれ以上に、組織への人材の勧誘についてマーケティングを行わなければならなくなっている、と言うのだ。組織が人を引きつけ、引き止められなければ、生産手段を持ったホワイトカラーは集まってもくれないし、残ってもくれない。本来、「我が社は魅力的だから来てください」とアピールすべきは組織の側なのだ。

AI時代には、この構造というか傾向は強くなるはずだ。というか、そうなるようにホワイトカラーがスタンスを決めなければならないと思うのだ。

組織は従業員に、知性のコピーを差し出してもらわなければならない。それは並のエンゲージメントで得られる協力じゃない。ドラッカーのいう「組織の使命」──この組織は何のために存在し、働き手の未来にどう報いるのか──に本気で意識を向けない組織は、自分の知的財産を独自に販売しうるマーケティングスキルを持ったレベルの高いホワイトカラーにそっぽを向かれる。「AIに入力するなんてごめんだよ」と、静かに、しかし決定的に拒否される可能性すらある。

冒頭で紹介した「50%と85%の差」を分けるのが従業員の暗黙知だとすれば、この拒否は、そのままAI活用の成否を分ける。オコナー氏の語る「雇用関係・労使関係がAI競争のカギを握る」という一見、意味不明な結論は、実はこういうことだったわけだ。

多元社会の結合という宿題

『プロフェッショナルの条件』Part1第2章「新しい社会の主役は誰か」の締めに、こんな3行が置かれている。

我々が直面する課題、特に民主主義と市場経済のもとにある先進社会が直面する課題は、独立した知識組織からなる多元社会に対し、いかにして経済的な能力と政治的、社会的な結合をもたらすかという問題である。

知識を所有する独立した個人と組織とが、どうやって結合を保つのか。
ドラッカーがこの宿題を提出してから四半世紀、答えは出ないまま、問題だけはAIの登場によって先鋭化してしまっている。

組織であれ、自立した個人であれ、多元社会を構成する一員として、どういう価値を提供し、誰とどう共同し価値を生み出していくのか、かなり真剣に考えなければならない時代になりつつある。そうでないと、気がついたらすべてがAIに隷属させられていた…なんていうディストピアになりかねない。

いかがだろう? 1999年の本が、2026年の日経コラムを読み解く最良の補助線になる ── そんな、最新のビジネス書を追いかけるだけでは得られない読書体験を感じてもらえただろうか?

古典は決して「答え」を見せてはくれないが、「問いの精度」を上げ、「問いに向かう補助線」を引いて見せてくれるものなのだ。

ただ、正直に言えば、この本を一人で読み通すのはなかなか骨が折れる。抽象度の高い記述を、自分の現場にどう引きつけるか。そして、そこからどんな未来を描くか。── そこは、問いをぶつけ合いながら仲間と一緒に読むほうが、断然深いし思考が鍛えられる。

8月からスタートする読書会では、最初の課題図書として、この『プロフェッショナルの条件』を据えることにした。組織の側に立つ方も、プロフェッショナルとして立とうとする方も、一緒に語り合い、未来を読み解く時間を過ごしてはどうだろうか?

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