日経新聞の記事を読んで、「だよね…」という想いとセットで「でもさぁ」というデモサー思考が発動しまして…。
曰く、
「エンジニア賃金二極化」
「…顧客の要件を定義して基本構造を設計する「上流工程」と、コーディングやテストを担う「下流工程」だ。…上流…の単価が26年5月は2割上がる一方、下流…は5割下がった。」── 日経新聞 2026.07.20 朝刊
つまるところ「エンジニアの賃金が二極化している」という話。
コードを書く仕事はAIに奪われ、要件定義や戦略立案などの上流工程に価値が移る──端的に言えば、こういうことだ。
これは本当にその通りだ。もはやホワイトカラーという名の単純作業はAIに置き換えられていく宿命だろう。
ただ、どうしても「でもさー」と言いたくなる部分があって、今日はその話をしたい。
簡単に言えば「だから上流を目指せ」とでも言いたげな話は何か間違っているんじゃないか、という話だ。
AIに奪われる条件は「工程の上下」じゃない
この記事のように、AIによる侵食の軸を「上流⇔下流」という数直線のような一本の軸で考えることが、そもそも誤りだよね?と感じるワケだ。
コーディングはAIに奪われる。テストもそう。要件定義や戦略立案に移れば安全──というロジック。一見筋が通ってるように見える。
でもさー…と思考回路を立ち上げてみたいんだ。
「なぜコーディングが侵食されているの?」というセルフツッコミ。
ちょっと考えれば分かることなのだが、それは「下流だから」じゃない。「定型だから」なんだ。
タスクがパターン化、構造化されていて、入力と出力の関係が明確で、手順が記述可能なもの── これがAIの圧倒的に得意な仕事だ。コーディングはまさにドンピシャだ。だから最初に奪われた。
まず「じゃーさー」と考えてみる。似たような案件では「じゃーさー、“旅行プランづくり”みたいなものもそうよね?」と。顔の見える、固有名のお客様をイメージする必要がなく、ゴールといくつかの条件さえ入力すれば経験値で自動的に出力できる仕事。「経験値」が言語化できれば、なんだっていけるはずだ。
再び「じゃーさー」と考える。「上流工程」はどう何が違うの?と。
でも実は、「上流」の中身を少し具体的にイメージしてみると、二つのものが混在しているのがわかる。
ひとつは「課題を構造化して答えを出す作業」。
3CとかSWOT、イシューツリーを使ってフレームワークに当てはめていく仕事。問いと条件が与えられた状態で、それを整理する作業。
もうひとつは「何を課題とすべきかを決める判断」。目の前の現実を見て、無数に存在するパラメーターを意識・無意識に探索・対照・結合して、どこに問いを立てるかを決める力。フレームでは拾えないものに気づく力。
前者は、間違いなくAIが最も得意とする領域だ。
だって、フレームワークって「定型そのもの」だから。3Cも、ロジックツリーも、バリューチェーンも──AIはそれを大量に学習している。「定型の型/パターン」を使う作業は、上流に行っても定型のままなんだ。
ここを理解していないと、上流でも5年後はない。
間違いなく侵食の軸は「上下」じゃない。「定型/非定型」だ。
だから、今、管理職がAIに置き換えられつつあるわけだ。
「選好の砦」という考え方と、正直な冷や水
「じゃーさー、非定型の仕事をすれば安全なのかね?」──当然そう聞きたくなる。
そこで、もう少し深掘ってみたい。
「人間ならでは」が残るのはどこか?── こんな問いに、大きく分けて二つの答えがあると私は考えている。
ひとつは「AIに原理的にできないから残る」という考え方。能力による砦だ。
もうひとつは「AIができても、人間がやることを人間が好む」という考え方。これは能力の砦に対して、好みの砦と呼んでいいだろう。
たとえばコーチングやカウンセリング。AIが論理的には同等の回答を出せるようになっても、「誰か、“人”に話を聞いてほしい」という好みがある限り、仕事として成立し続ける。
実は、人間の働く場の多くは「能力の砦」ではなく「好みの砦」によって守られるのでは?なんて思っている。
能力の砦は、「ま、期待のx.7って感じだけど、コストが安いからいいや」って感じで、いとも簡単に乗り越えられる。今のイラストや写真などの画像(このブログ記事のアイキャッチも!)や文章がそうだ。
でも、人間ならではの安心感とか、ウィットと気遣いを感じる暖かさとか、これはしばらくは人間だけの持ちうるものだろう。(手塚治虫×浦沢直樹の『プルート』の世界線なら、そこも壊れそうだけどね!)
ただ──ここが大事だと思う訳だけど──「砦はなくならない」と「砦は痩せない」はまったく別の話だ。
イラストや文章(なんなら音楽や絵画だって!)のようにAIが80点の仕事をタダ同然で出せる世界では、人間に支払われる対価は「AIとの差額」に圧縮されていくはずだ。
砦は存在し続けるかもしれないけれど、その中で稼げる額は今より小さくなる可能性が十分にある。
同時に、受け手にとっての80点と100点のギャップに、点数以上の何か大きな感動やら感情の動きを込められれば、報酬は限りなく跳ね上がるはずだ。
これは楽観論でも悲観論でもない。ただの構造的な話として、素直に受け止めておく必要がある。
梯子が消えた──誰も言わない一番深刻な問題
ここから先が、今、世間で一番困惑されている部分だと思うのだが…
「下流がAIに奪われる」── その最も深刻な部分だ。
下流の仕事は、何かを生産するためだけにあったわけじゃない。それは、新しい人が経験を積む唯一の場だった。
コードを書くことを通じて、エンジニアはシステムの動作原理を身体で理解する。コンサルのジュニアが資料を作ることで、論点整理の筋力がついていく。広告代理店の若手が伝票処理や会議のセッティング、議事録整理をやりながら、クライアントや社内の空気を読む力を磨いていく。
これはエンジニアだけの話じゃない。知識労働全般で、同じことが起きている。
その梯子が、今消えようとしている。これが、このシリーズの第3話で語ったことだ。
上流工程に価値がある。そして、上流に昇っていくために、下流から梯子を一段ずつ上る経験が必要だった。その梯子がなくなった世界で、若い人はどうやって上流まで行けばいいのか。
残念ながら、そこに明確な答えはない。
さらに深刻なのは、組織側の論理だ。若手を育てるコストは莫大で、その若手はやがて転職していくことも多い。育成は「他社への贈与」になりかねない。合理的な組織ほど育てず、即戦力を外部から買うようになる。
ここ数ヶ月、大手メディアでも「新規採用消滅・中途採用拡大」の話が少しずつ語られるようになってきているのは、まさにそういう話だ。
つまり、社会全体では「誰も育てないが、即戦力が欲しい」という矛盾が積み上がっていく。これを経済学では「合成の誤謬」と呼ぶらしい。個々の判断は正しいのに、全体として誰も得しない状態が生まれてしまう現象だ。
その結果として見えてくるのは「階層の固定化」だ。(といっても、10年後はとんだディストピアなんだけど…)
自前で経験を積める環境にいる人(親のコネ、資本力、初期スキル)だけが上流に届く。梯子がないなら、学生時代からの意識高く「自前で用意した梯子」を昇りながら訓練するしかない。
「AIが格差を縮める」という楽観論とは、正反対の未来が見えてくる。(これは、親の世界観・労働観・未来観の格差かも知れない!)
エーリッヒ・フロムが100年前に見ていたもの
ここまで来ると、「では何をすればいいのか」という問いに向き合わざるを得ない。
ここで私の大好きな一人の思想家を紹介したい。エーリッヒ・フロムというドイツの哲学者だ。
彼が1976年に書いた『生きるということ』という本がある。

フロムはその中で、人間の存在様式を二つに分けた。having(持つ様式)とbeing(在る様式)だ。
havingは「何を持っているか」によって自分を定義する様式。
資格、年収、肩書き、知識・スキルセット── 外側に積み上げた何かで、自分の価値を証明しようとする。
beingは「どうあるか」によって自分を定義する様式。
考え続けていること、感じ続けていること、変わり続けていること──内側の動的なプロセスそのものが、自分のアイデンティティになる。
フロムはhavingの様式を批判したわけじゃない。ただ「havingだけでは生きることの本質に届かない」と言った。
これって、そのままAI時代に目指すべき姿に当てはめて考えられる── これが僕の仮説だ。
あなたが今持っているスキル、知識、フレームワーク──それは残念ながら「having」だ。知識もスキルも言語化され数値化され発信された瞬間に公共財になる。
AIがそれ(と似たもの)を学習した瞬間に、その価値は相対化され、タダ同然になる。誰でもアクセスできるものは、差別化の資源になりようがない。
一方「being」だ。
2008年に出版した『フォーカス・リーディング』の中で使った比喩を援用するなら──収穫物(having)は誰でも買えるし、コピーできる。でも「畑を耕す力」「土を読む感覚」「季節の変化に気づく目」(farming)は、長い時間をかけて内側に蓄積されるもので、簡単には複製できない。
さらに決定的なのは、「この人の内なる耕作地は、将来もっと豊かになる」というポジティブな予感を与えられる人物には、ブランドが生まれるということだ。
過去の収穫物ではなく、成長し続けるプロセスそのものが価値になる。「何を持っているか(having)」ではなく、「どうあるか(being)」が問われる時代になるのではないか? ── やや回りくどくエーリッヒ・フロムの話を引いてきたのは、そんな仮説を披露したかったからだ。
「耕された内的空間」という表現について
ここで少し個人的な話をしたい。
「豊かに耕された内的空間」という言葉を、ここ最近、使うようになった(まだベータ版的な表現ではあるが)。
知識を持っていること(having)じゃない。その知識をどう問いと結びつけるか? そして、自分なりの見方を育ててきたか。さまざまな経験をどう内省して、判断の感覚として蓄積してきたか。クリアに見えない矛盾や不確実性の前で、どんな問いを立てられるか。
そういう「内側の豊かさ」こそが、AIに代替されにくいbeingの核心になるはずだ── これが僕の現段階での仮説だ。
ただし正直に言っておくと…、内的空間を耕すこと自体は、決して「楽」じゃない。
ホワイトカラーという「何でも屋(それでいて何ものでもない屋)」が淘汰される時代に、「自分はこの問いついて、誰よりも深く考えてきた」という領域を作り続けること。その過程を外に見せ続けること。ベータ版であれ、公共財になること恐れず発信し続けること。「小さくても光るブランド」──この領域では、こんな人(理想のクライアントだね)にとって世界一の存在になれる──そう確信できることを見つけること。
それは一度やれば終わりじゃなくて、生涯続くプロセスだ。そして、これはまさに『ワーク・シフト』で著者グラットンが予言したカリヨンツリー型キャリアにつながる話でもある。
農耕型で、ちょっと先の社会を予想しながら耕し、種を蒔き、育てていく── その営みを続けている人のコンテンツは「完成品の配布」じゃなくて「耕している姿の実況」になるはずだ。
それ自体がbeingの実践だと考えるわけだ。
「上流は安全か」への率直な答え
最後に、タイトルに戻ることにしよう。──「上流は安泰か?」
今の僕の正直な答えは「上下という問い方が、すでに間違っている」だ。すでに上述した通りだが、
上流の中の定型部分は、下流と同じ速度で侵食されていく。上流の中の非定型部分──「何を課題とすべきか」を決める判断──には価値が残る。でもその砦は「痩せる」かもしれない。
そして最大の問題は「梯子」だ。
下流がなくなることで、上流に届くための唯一のルートが消えようとしている。自前で経験を積める人間だけが上に行ける構造が強化されれば、それは新しい形の格差社会だ。
では何をすればいいのか?
外側の知識・スキル(having)を積み上げ続けることは大事だ。でも、それだけでは足りない。
「どう在るか(being)」── havingを積み上げるプロセスで、常に問い続けること。変わり続けること。内側を耕し続けること。── そして、それを外に見える形で発信し続けること。
完成した答えを届けるより、考えながら歩いている姿を見せること。
そういう人のそばにいたい、という「好み」は、AIがどれだけ賢くなっても残り続ける── これも僕の確信めいた仮説だ。
さて、あなたはどんな「今」を未来への梯子として昇っていくだろう?
どんなプロセスを、どんなフィルターで感じ、観察していくだろう?
ぜひ、そんな問いを持ち続けていって欲しい。
p.s.
速読を通じて、一年に何十冊・何百冊もの本を読み込んでいくと、内側の風景が変わっていく。
速読で欲しい情報を狙い撃ちにして読み取る作業はAIに代替できる。
でも、もし知識が「持ち物」ではなくて、思考の土台として沁み込んでいく感覚を生み出すために速読スキルを使えたなら、それは「耕す(農耕型読書)」の一つの形だと思っている。
もし「内側を耕す」ための具体的な読書の方法を探しているなら、フォーカス・リーディング講座で深く話ができるだろう。





コメント