こんにちは。読書と学習法のナビゲーター、寺田です。
私はたびたび「古典」や「古典的名著」を読むべし、と説教くさく語ります。
別にイマドキの新刊書が「ダメな本」だと主張しているわけではありません。
何かを知る、何か行動を起こすための教科書にする、そういう用途にはとても適しています。
しかし、頭は鍛えられない。ただ、それだけです。
なぜ鍛えられないかというと、
分かりやすい、頭を使わなくても読める書き方がされているから。
そして、さらに言えば具体的なことしか書かれていないから。
当たり前ですね。
【今】抱えている問題を解決することにフォーカスした本ですから、
できるだけ無駄なく、疑問なく行動と成果につながるように工夫されているわけです。
「今の成果」にフォーカスし過ぎると、未来が枯渇する
学びには「今」にフォーカスしたものと、「未来」にフォーカスしたものとがあります。
投資になぞらえるなら、仕入れや販促に向けるのか、設備投資・人材教育に向けるのか、そういう違いです。
今にフォーカスし過ぎると、未来が枯渇します。
かといって未来にばかり目を向けていくと、今が立ちゆかなくなります。
私たちは常に、この「今」と「未来」のはざまでバランスを取りながら、最適な投資を考えなければならないわけです。
実用書が実用的になる根拠は…
実用書(ビジネス書、ノウハウ書)は役に立ちます。
しかし、それを本当に価値のあるものにするのは、あなたの読書力にかかっています。
書籍に文字として書かれている言葉の奥に横たわる、著者の現場、そこでの苦労、あるいはそこまでの下積み経験を、行間に読み取れなければ、本当の価値は受け止められません。
同じ本を読んでも、ありえないぐらい成果を上げる人と、何も変わらない人、失敗する人がいるのは、この読書力に差があるからです。
「今」にフォーカスした読書が価値あるものになるかどうかは、「今に至る過去」次第。
実用書が実用的である根拠は、あなたの読書力と、あなたのビジネス経験にかかっているわけです。
読書力を鍛えるためには?
世の中で「何かを知っていること」と「相手の意図や言葉を正しく読み取ること」のどちらが重要かといえば、間違いなく後者です。
知識は時間・時代の流れと共に、常に新陳代謝をしていかなければなりません。
その新陳代謝のスピードと質を決めるのが「読み取る力」です。
そして、読書力そのものを鍛えるためには、今の自分の読書力を超えるものを読むしかありません。
言葉を表面的になぞっていくだけで分かってしまう文章を、いくら読んでも理解力が高まるはずがありませんよね?
私たちは「知る喜び」を手に入れることにかまけて、「理解する力を高める作業」を置き去りにしてはならないのです。
なぜ「古典」なのか?
別に理解する力を高める作業は、古典を読まなくても可能です。
具体的でない言葉で書かれた本、想像力を駆使しなければ理解できない本、歯を食いしばって読まなければならない本、そういう本であればいいわけです。
ただ、手っ取り早くて、ハズレがないのが「古典」というだけの話です。
大事なことは「具体的でない」という部分。
違う言い方をすれば「抽象的である」ということ。
あるいは「経験を超えている」ということ。
そういう読みにくい言葉と闘うことで、私たちの理解力、想像力は高まっていくわけです。
古典を読むぞ-!とか息巻いて、いきなり『方法序説』とか『エミール』とか読んでも撃沈する可能性が大なわけでして、どの程度までさかのぼるべきかというのは実に難しい問題です。
第一段階は、30年以上前に出た本でいいでしょう。30年というと「一世代」経過します。その頃出版されて、未だに残っている本はある意味、ハズレがありません。
そこから1960年以前の本へ。
昭和初期から戦後まもなくに書かれた本は、「読みやすさ」なんてものが一切考慮されていません。読者を選ぶ本がほとんど。そこに挑むわけです。
そして近代へ。さらに西洋の古典へ…と広げていって見てはいかがでしょう?
語彙を増やそう!
はじめ読みにくい、意味分からない!と思っていた抽象的な言葉も次第に、自分なりの意味、世界観を持ち始めます。
さまざまな文脈の中で出会い、あるいは自分でも使っていくうちに、そこに「経験」が入り込んでいくことによって。
そして、抽象語も、いつしか違和感なく使いこなせるようになります。
まさに語彙が1つ豊富になった状態です。
語彙という「ワード」単位にとどまりません。
「フレーズ」だったり、「ロジック」だったり、「レトリック」だったり。
そういうものも、それらと格闘することによって、自分の中に、ある定まった具体性のあるイメージをともなって定着していきます。
・・・と書いてみましたが、この↑一文、1回ですっきり理解できましたか?
もし、さらっと流してしまった方は、ぜひもう1度読み直してみてください。かなり分かりにくい表現になってしまってます。
気をつけないと、こういう著者の独り善がりの(笑)分かりづらい言葉をスルーしてしまいかねません。
これは話し言葉の中だと、もっと軽やかにスルーしてしまうはずです。
なんとなく分かった気になってスルーしてしまわず、きちんと受け止め、処理する癖を付けなければなりません。
例えば、「この事件には、…といった社会的背景があったものと…」というフレーズがニュースなどで流れたとします。
別に難しくありませんよね?
では「社会的背景」って言葉は、いつ頃から「すんなり理解できる言葉」になったのか?
小学校1年生なら「社会的背景って、どういう意味?」って質問するはずです。
いつのまにか、「社会的背景」という抽象語が、自分の体験を通じて具体的な言葉になっているわけですよ。
そういう体験をたくさんしなければならないと思うわけです。はい。
理解力を高めるために本を読む。
「本を読んで、何かに活かす」のではなく、「ひたすら修行のために読む」という作業。
それが「古典を読む」という作業なんですね。
そして、だからこそ「古典を読め」という話になってしまうわけです。
私が考える「古典を読むべき、たった1つの理由」はそこ。
ぜひ1~2ヶ月に1冊、薄くてもいいので、古典を楽しむ習慣を持ちましょう!