「人生を真剣に生きようとしたら、何人も読書というものと、無関係ではありえないというわけである。」
── 森信三著『人生論としての読書論』
『修身教授録』という、人としてのあり方について問う書で有名な森氏の読書論。
彼は、人生を考えることと、ほぼイコールで読書を考えることと語ります。
「あまり本を読まない」ということは、ニアリーイコールで、「あまり人生を生きていない」ということだ、と。

そこまで大げさにいう? 本なんて読まなくたって生きていけるし、必要な情報はネットで大抵のことは学べるじゃない…?
そう考える方も、きっとたくさんいらっしゃることでしょう。
では、こういう命題はどうでしょう?

「自分の人生は、自分で主体的に創るものである。」という命題ですが…
人に支配されず、人の言説に煽られず、主体的に考え、主体的に生きることこそが、私の人生の重大事である、という考え方。
それでも、

別に、そこまで大袈裟に考えなくたって、流されて生きていってもいいんじゃない?
あなたが本当にそう思うなら、それはそれで構いません。それもまた、あなたの人生ですから。
多分、読書というのは、自分の人生を主体的に生き、今を能動的に過ごしていきたいと思う人のもの。
だって、私たちの思考回路も、知性も、感性も、あらゆる外界へのアンテナと、受け止めたものの受け皿は言葉と体験でできています。体験は言葉で整理されて初めて再生可能で、伝達可能な知恵に変わります。
そして、残念ながら「動画」で学ぶことはとても難しい。
人間の意識的な処理というのは、とてもキャパが小さいので、視界に展開され、意識的に操作される状態の情報でないと、うまく処理できません。もちおrん、高速にも。
だから、暗算より筆算の方が、複雑な計算を正確に高速に処理できるわけです。
しかも、動画って、誰かが学び、編集・咀嚼した3次情報です。書籍と違って、その信頼性も正確性も保証されません。
もしあなたが自分の人生を、自らの意志で創ることを大事と思うならば、あなたは、あなたの哲学、あなたの美学にしたがって、より善く生きることを考えていくことになるはずですが…
その時、何を根拠に判断し、何を根拠に行動するか?
誰しも自分オリジナルの言葉なんてものは持ち得ず思考回路の100%を他者から学び、それを自分の体験の中でユニークなものに熟成・発酵させてきたに過ぎないのです。
だから ── 人生を創ることは学ぶことであり、それはとりもなおさず、人から学ぶことであり、あるいは人の体験を間接的に体験することであり、
どう考えても「読書」を通じて学ぶことこそが、最高で最適な方法だと言えるわけです。
直接的に誰かから学ぶとしても、その「誰か」を選ぶ判断基準も、その人の言説の妥当性と信頼性も、やはり本からしか学び得ませんからね。
というわけで、自分ならではの人生を主体的に楽しみたいと思うなら、やっぱり本を読みましょう。
読書が楽しくなれば、そして読書の幅が広がれば、人生の幅も広がり、そしてもっともっと豊かになるはずです。